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「涙そうそう」「芭蕉布」はいつ生まれた?|沖縄の名曲の歴史を1960年代からたどる

こんにちは。
栗山新也沖縄三線教室の栗山です(*^^*)
教室では、「涙そうそう」「島人ぬ宝」「花」「芭蕉布」といった曲がとても人気です。どれも沖縄の歌として親しまれていますが、生まれたのは意外と最近です。古いもので1960年代、新しいものは2000年代に、それぞれの時代の沖縄の中で作られました。
今回は、こうした名曲がどんな流れで生まれてきたのかを、1960年代から順にお話しします。曲が生まれた背景を知ると、弾くときの気持ちも少し変わってきます。
1960年代:「芭蕉布」と、作曲家が作る沖縄の歌のはじまり
戦後の沖縄で、新しい歌を次々と作り出した人がいます。普久原恒勇(ふくはら つねお)さんです。
恒勇さんは1932年、大阪生まれです。養父は、戦前の大阪で沖縄のレコード会社「マルフクレコード」を作った普久原朝喜さんでした。当時の大阪には沖縄から働きに来た人が多く住んでいて、朝喜さんはその人たちのために沖縄の歌をレコードにしていました。恒勇さんはそうした家で育ち、大阪の音楽院で西洋音楽を学びます。そして1959年に沖縄へ移り、1961年に作曲家としてデビューしました。
1965年、恒勇さんは「芭蕉布」「ゆうなの花」「ふるさとの雨」「ヘイ!二才達」を次々と発表します。それまでの沖縄の歌は、昔から歌い継がれてきた民謡が中心でした。恒勇さんの歌は、歌い方や節回しは民謡の感じをそのまま残しながら、伴奏には西洋音楽で学んだコードの考え方を使っています。民謡を知っている人が聴けば「沖縄の歌だ」と分かり、民謡を知らない人が聴いても歌謡曲のように自然に耳に入ってくる。この作り方が、あとに続く新しい沖縄の歌の土台になりました。恒勇さんはその後も500曲以上を作り、「フォーシスターズ」をはじめ多くの歌い手を育てています。
教室でも人気の「娘ジントヨー」は、恒勇さんの曲です。歌詞の意味は別の記事でご紹介しています。
同じころ、コザ(今の沖縄市)では照屋林助(てるや りんすけ)さんが人気でした。1957年にはじめた「ワタブーショー」は、三線を弾きながら、民謡に歌謡曲や洋楽、笑い話を次々と混ぜていく舞台です。戦後のつらい時代に、人びとを笑わせて元気づけました。恒勇さんが「民謡を今の音楽として作り直した」とすれば、林助さんは「民謡に何でも混ぜてしまってよい」という自由さを示した人です。この自由さは、次の時代にそのまま引き継がれます。
1970年代:「ハイサイおじさん」が生まれる
1970年代の話をするには、アメリカ軍の基地の話が欠かせません。沖縄は1972年に日本へ復帰するまで、27年間アメリカが統治していました。基地のまわりにはアメリカ兵向けのバーやクラブが並び、沖縄の若者はそこで演奏するためにロックを覚えました。コザは、その中心の街です。
この街の空気から生まれたのが、喜納昌吉(きな しょうきち)さんの「ハイサイおじさん」です。
昌吉さんは1948年生まれで、父は民謡歌手の喜納昌永さんです。「ハイサイおじさん」は昌吉さんが10代のときに作った曲で、1969年に父のアルバムに収められたのがはじまりでした。1972年に昌吉さん自身の名前でレコードになり、沖縄で大ヒットします。
この曲は、歌い方もメロディーも沖縄の民謡そのものです。そこにロックのリズムとエレキギターの勢いを乗せました。民謡の形をそのまま残しながら、若者がバンドで盛り上がれる歌にしたところが、この曲のいちばんの特徴です。
「ハイサイおじさん」は、1976年に大阪のラジオで紹介されたことをきっかけに関西で人気になり、1977年には全国向けのアルバム『喜納昌吉&チャンプルーズ』が出ました。沖縄の歌が、沖縄の外で聴かれるようになった最初の大きな出来事です。今では高校野球の応援曲として、甲子園でもおなじみになっています。
1970年代の終わりには、照屋林助さんの長男・照屋林賢さんが「りんけんバンド」を結成しました。三線や島太鼓に、ドラムやキーボードを組み合わせたバンドです。父が舞台でやっていた「民謡に何でも混ぜる」やり方を、息子はバンドの形で続けました。
1990年代:「花」「島唄」と沖縄ブーム
1990年代に入ると、沖縄の歌が本土で広く聴かれるようになります。
きっかけのひとつは、沖縄の側から新しい歌い手が出てきたことです。民謡歌手の知名定男さんが育てた女性4人組「ネーネーズ」は、民謡の歌声にポップスの伴奏を合わせて、「黄金の花」などを歌いました。民謡の歌い方を身につけた人が歌うポップス、という形が、ここで一つの完成を見ます。石垣島出身のBEGINがデビューしたのも1990年です。喜納昌吉さんが1980年に作っていた「花(すべての人の心に花を)」も、この時代に日本中で歌われるようになり、のちにアジア各国でもカバーされました。
もうひとつは、本土のミュージシャンが沖縄の音楽に惹かれて、自分の曲に取り入れたことです。その代表がTHE BOOMの「島唄」(1992年)です。本土出身のバンドが、沖縄の民謡で使われる音階を使って作ったこの曲は大ヒットし、三線の音や沖縄のメロディーを、それまで沖縄の歌を聴いたことのなかった人にも届けました。教室でも「島唄」は人気の曲で、サビの練習の進め方は別の記事で紹介しています。
そして同じころ、安室奈美恵さん、SPEED、MAX、Kiroroといった沖縄出身の歌手が、日本のポップスの世界で次々とデビューしています。歌の内容は沖縄と関係のないものがほとんどでしたが、「沖縄から次々とスターが出てくる」という印象が広がり、沖縄は「歌の島」として日本中に知られるようになりました。
2000年代:「涙そうそう」「島人ぬ宝」が日本中で歌われる
私が三線を始めて、初めて沖縄を訪れたのも、ちょうどこのころです。登川誠仁さんが出演した映画「ナビィの恋」が話題になるなど、沖縄ブームの真っただ中でした。
2001年、NHKの朝ドラ「ちゅらさん」が放送されました。沖縄を舞台にしたこのドラマは全国で人気になり、沖縄への関心は1990年代よりさらに高まります。
同じ年、「涙そうそう」が広く知られるようになりました。この曲は、森山良子さんが亡くなった兄のことを思って詞を書き、BEGINが曲をつけて1998年に生まれた歌です。それを2001年に沖縄出身の夏川りみさんが歌ったことで、沖縄の歌として全国に広まりました。翌2002年には、BEGINが「島人ぬ宝」を発表しています。
「涙そうそう」は教室でも、三線を始めた方が最初に弾きたいと言われる曲のひとつです。この曲のサビの弾き方は別の記事と動画で紹介しています。
この2曲によって、沖縄の歌は「沖縄の人が歌う歌」という枠を越えました。卒業式や結婚式、合唱の場で、沖縄とつながりのない人たちがふつうに歌う曲になりました。三線の音と沖縄のメロディーが入った歌が、日本のポップスの一部として定着したのが、この時代です。
歌の背景を知ると、もっと楽しくなります
ここまで、1960年代から2000年代まで、新しい沖縄の歌が生まれてきた流れをたどってきました。いま教室で人気の曲は、どれもこの約40年の流れの中で生まれています。
曲が生まれた時代や、作った人の思い、その背景を知ると、歌うことがもっと楽しくなりますし、歌を通して沖縄のことをより深く知ることができます。
教室では、こうした歌の背景も交えながら、生徒さんのペースに合わせて楽しくレッスンしていきます。三線を弾くことと、沖縄の歌を知ることを、一緒に楽しんでいただけたらうれしいです。
無料体験レッスンを実施しています
栗山新也沖縄三線教室では、京都・大阪なんば・津・鈴鹿・四日市・名古屋の6教室で無料体験レッスンを行っています。生徒さんの9割が楽器未経験からのスタートです。はじめての方も大歓迎です。
各教室のレッスン日程は教室ページでご確認ください。
