こんにちは♪

今日は三線を習う文化についてのおはなしです。

現在、沖縄や日本本土、海外にまで広がる三線教室。一般の人が三線を習えるようになった最初の頃は、どのようなものだったのでしょうか。。。

大正時代に三線を習った西島宗次郎という人物の話をのこした『三線のはなし』(ひるぎ社、1999年)に学んでみたいと思います。

三線を習うには相当な財力と時間が必要だった

『三線のはなし』によると・・・

西島宗次郎は大正8年、多年の願望であった三線を習おうと思いたち当時最高の音楽家と称されていた那覇市の伊差川世瑞に弟子入りを申し出ました。伊差川は「三線を習うには相当の財力と暇がいるが君は大丈夫か」と念を押しました。西島は「今帰仁の田舎には多少資産もあるのでその心配はない」と話して許可を得ることができました。

西島は今帰仁から那覇まで二十五里(100キロ)の道を通っては十分な稽古もできないと思い、那覇に住所を移し雑貨商をしながら、稽古日には欠かさず出席しました。稽古は月2回、午後から師匠と弟子数名で辻遊郭の座敷を借り切って行うのが決まりでした。稽古が終わるとそのまま鑑賞会をかね慰労会が行われました。費用は弟子の持ち回りで、一回で現在の20万円程度。その稽古をおよそ10年ぐらい続けて漸く一人前の教師免許が与えられるのが普通でしたが西島は精励したお陰で8年目で取得しました。

(『三線のはなし』19-20頁参照)

一回20万円とは驚きですね。三線を習うには相当な財力と時間が必要で、おそらく一般の庶民で習える者はほとんどいなかったと思われます。

耳で学ぶ

このようにして免状があたえられた西島の教え方についても同書に紹介されています。

西島に習った玉城という人物によると・・・

西島の教授法は口伝を主にした集団教授法で、弟子の数名を同時に集めました。西島は教本に全く頼らず、伊差川から習った節をそのまま暗記しているので、弟子一人一人の演奏を目を閉じたまま聞き、終わった後で個々の演奏に注意を与えました。数名の弟子が演奏し稽古が合わるまでおよそ二時間かかりました。しかし自分の課題曲だけでなく、ほかの弟子の曲も聞き覚えることができるので時間の無駄にはならなかった。

(『三線のはなし』20頁参照)

教え方にはいろいろなやり方があったと思われますが、西島は集団レッスンで1人1人覚えてきた節を歌わせて指導するスタイルだったんですね。

ここで注目したいは、玉城がほかの弟子の歌を聞いて覚えたということ。現在師匠をやっている方にお話を聞いてまわっていると同じようにして曲を覚えたというお話が聞かれました(「習う前に先輩がやっているの聞いていたから全部覚えていたよ」)。自分が今練習している曲だけでなく、ほかの弟子がやっている曲をよく聞いて耳で学ぶこと。。。

これは上達の秘訣だと思います!

 

※引用は読みやすいように原文から少し直してあります。

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